謹言お疲れさまでした!&通販お知らせ&振分髪さん号

恐惶謹言二十七お疲れさまでした!
スペースにお立ち寄り下さった方も、本を手に取って下さった方も本当にありがとうございました。
お陰さまでせんむそ本『このたび同じ姓になりまして』が完売となりました。ありがとうございます!

新刊『抄訳『朝鮮物語』『光禄物語』『糟粕手鏡』』の通販を開始いたしました。
BOOTH:https://namazu-chaya.booth.pm/items/1708321
チャレマ:http://www.chalema.com/book/namazu/item.php?id=namazu-20191202192426

また、pixivに当日無配したペーパー漫画をアップしています。
新刊にはこちらの逸話の本文や解説も収録してます。
次回参加予定は2020/1/12 COMIC CITY大阪 119です、よろしくお願いします!

ところで、週刊「日本刀」の振分髪広光号出てたんですね。
運よくイベント後書店にて買えたのですが出版社在庫切れ…。
内容ですが、等身大ポスターや刀の解説はもちろん、
・どうやって広家が振分髪を手に入れたのかについての詳しい経緯
・引用元となった『伊勢物語』のエピソード
・細川幽斎の名付けエピソード(慶長年間に伏見城ということは広家は関ヶ原前に入手してる?)
・同名の他の刀について
・広家と関ヶ原
・幕末の吉川家(吉川経幹について)
・岩国藩主の佩刀・相州在秋広について

と盛りだくさんです。
特に広家と並んで吉川経幹に触れているところが分かっていらっしゃる…!
ちゃんと死を伏せて城主格になったエピソードに触れられていて感動…。
そんな振分髪広光さんは吉川資料館で12/1より12/22まで展示中だそうです。

三原城も!

三原城(と新高山城)の御城印も出来たそうですよ!
2019/11/2より販売開始。販売場所は11/2,3(浮城まつり期間中)は三原城跡歴史公園内毛利三兄弟ふるさと連携協議会ブース、 以降はJR三原駅構内のうきしろロビー観光案内所とのことです。

で、しっかりと左三つ巴が入っている訳で…これは岡山城の御城印と並べてくれと言わんばかりのタイミングと内容…!
というかこのプレスリリース見て気付いたけど(吉田)郡山城の御城印もあるんですね。
あと米子城の御城印には吉川家の家紋入り。
これはまた色々巡ってみなければ…。

そういえば天華の富田江さんちょっとだけ秀次さんの所に居た時期があったらしいです。
五七桐付けてるしちょっと触れてくれると嬉しいなー(でも設定的には秀吉様要素の方が強そう)
ところで毛利藤四郎実装まだですか。

大河内逸話セレクション・その6

本日は『光禄物語』より、個人的に一番知られて欲しいなあ…と思う逸話です。

秀詮の死
【本文】
角て十月十七日に、御家中士、一千三百余人を召集させ、御使を以宣けるは、「秀詮が露命今日二究れり。今生の暇乞なれば、後刻立出て、各に対面すべし」との御意にて、御料理を下され、大般若・捨子の御壷の御茶迄下さるる。諸人御意を承り、弥力を落し、落涙に咽で、喉も更にあがらざりけり。
翌十八日丙申の早天に、御歳二十一歳にて、眠玉ふが如く右の御膝を立られ、柱に寄掛りながら、御逝去ありける。
御名をば「瑞雲院前黄門秀巌日詮大居士」とぞ号し奉る。
両国老少男女なげき悲む次第、昔時釈尊の御入滅にも超ぬべし。遠国他国者迄も、惜奉る事限なし。
常に御秘蔵ありし御鷹数十有けるが、足皮を切放しけるに、大鷹にも足鴨一足御城の木に居掛りえこいのみして居たりしが、御葬送の場に来り、火の中へ飛入りぬ。追散せども、終に火中に死たりける。数人袖をひたさぬばかりけり。

【訳】
かくして十月十七日に、御家中の武士たち千三百人余りを集められ、使いの者に「秀詮の命は今日に終わるであろう。今生の暇乞いなれば、後ほど出て来て皆と対面しよう」と申させ、お料理を下され、大般若と捨子の壺まで下された。皆秀詮公の意を御受けし、はなはだ力を落とし、落涙し嗚咽を漏らし、声も出なくなるほどであった。

翌十八日の夜明け、御歳数え二十一歳にて、眠っているかのように右の膝を立てられ、柱に寄りかかりながら御逝去なされた。
法名は「瑞雲院前黄門秀巌日詮大居士」と号された。
備前・美作両国の民は老若男女問わず嘆き悲しみ、その様はいにしえの釈尊の御入滅をも超える程であった。遠国・他国の者までも、その死を惜しむ事限りなかった。


いつも大切になされていた鷹が数十羽居たのだが、足緒(鷹狩りに使う、鷹の足に付ける紐)を切り放した。大鷹一羽が岡山城の木に止まってじっとしていたのだが、御葬送の場にやってきて、火の中に飛んで入ってしまった。追い払おうとしたが、遂に火の中で死んでしまった。数人は袖を浸さんばかりに涙を流した。

【解説】
8月頃に体調を崩し9月に帰国(「化生寺文書」3 この書状によれば9月28日に帰国)、10月17日にいったん持ち直すが翌18日の明け方に死去、という日時は聖護院道澄「金吾中納言卿いためることは」とほぼ一致する。ただし道澄の文では15日に鷹狩りをし、16日に危篤となったが17日にいったん持ち直したので喜びあったとある。道澄の文は北政所に送ったものであり秀元がこの文を見ていたかは不明だが、おおむねこの通りなのであろう。
秀秋の享年が数え21歳であるのも、書状(『新修福岡市史 資料編近世1』128)から分かる実年齢と一致する。この点も後世の情報ではなく、当事者の記録である事を色濃く感じさせる。
何と言っても秀秋が床に臥したままでは無く柱に寄りかかり片膝を立てた姿で亡くなった、という描写が特筆されるであろう。『朝鮮物語』『光禄物語』『糟粕手鏡』で描かれてきた秀秋の真っ直ぐな生き方を象徴するかのようである。
備前・美作の民、遠国・他国の者までもがその死を悲しんだ、とあり、秀秋が皆から慕われていた事を伺わせる。実際に『時慶記』でも、北政所や京の公家がその死を悼んでいた事が描写されている。

ほぼ解説で語ってしまったのですが、本当に格好いい死に方だと思っています。
しかもかなり真実に近いという。
(すごい衝撃を受けたので流石にこれを入れない訳にはいかないなとうつしよの波文庫版に追加してしまいました)
皆が悲しんだ…というのも、それだけ愛されていた人だったんだなあと思います。
特に領民たちは「座」の一件もありましたし。

岡山城の御城印が!!+大河内逸話セレクション・その5

遂に岡山城にも御城印が出来たそうで、10/1より岡山城おみやげ処で販売されているそうです。
で!ちゃんと宇喜多家・小早川家・池田家の家紋が入ってるんですよ!!!
秀秋さんファンとしては左三つ巴が入ってるのが目茶苦茶嬉しいです!
今年は忙しいから岡山行くの厳しいかなと思っていたのですが、こんなの出されたら行くしかないじゃないですか…!
何と言うか、今まさに『光禄物語』や『糟粕手鏡』をまとめてて、
今、岡山時代の秀秋さんがアツい!という状態だったので、こうやって岡山で秀秋さんが注目されてくれるのはすごく嬉しい。

という訳で、今日は『糟粕手鏡』より岡山の人々と秀秋さんの逸話を紹介。

自由な商業の奨励
【訳】
秀秋公がある時(岡山城の)天守に登り、遠くを見渡された時の事である。その時御前には横井丹後守・種村大蔵大輔・原田権之頭・尼子蔵人頭・下山蔵人頭・大河内茂左衛門尉(秀元)が居た。
秀秋公「この城下を見るに、寂れている様なのは何故だ」
(原田)権頭「御意の通りにて御座います。近ごろ家老達が『座』と申す物を申し付けたので、商人らはみな無闇に物を売る事が出来なくなり、そのため城下は寂しくなっているのです」
秀秋公「それは何のためか。予の為に良き事か、家臣らや町人ら、あまねく所の人々の為に良き事か」
権頭「家臣・町人・百姓らが少し窮屈でありましても、殿様の御為でございますので」
秀秋公「それが予の為にどうして良いのか」
権頭「(備前・美作の)両国において、一年に金二百五十枚ほどが上納されますので、御為になるかと存じます」
秀秋公「その『座』が申し付けられている限りはそれは叶わない。予の身の上において二百枚三百枚の黄金が何の役に立つのだ。例えば片方の役に立つからと言って、皆を不自由させる事は無い。急いでその『座』を止めさせるのだ」
権頭は畏まって下がって行き、家老の人々へその御意を言い渡した。
町奉行の望月采女正がことごとく触れを出したので、早くも翌日からは元の様に活気が溢れる様になった。
秀秋公は天守からそれを見て、とても嬉しそうに「あれこそが良いのだ」と仰った。真に世にも稀な優れた国主であった。


【解説】
民の幸せを第一とする秀秋の理念がよく表れた逸話である。慶長4年の筑前で行われた農業復興政策、そして「隆景の申しつけた通りにすることが世間の支持を得られる」の書簡を彷彿とさせる。
秀秋は藤原惺窩より儒学の教えを受けていた(『惺窩先生行状』『看羊録』) 惺窩が家康に講義したという『貞観政要』には主君はいかにあるべきかが綴られており、秀秋もこういった教えを受けていたのだろう。
なお秀秋が亡くなった直後の知行高目録に見える知行高は40万4000石(「藩中古文書」十二)で、従来言われていた51万石(『徳川加除封録』)より少ないのだが、或いはこの差は税率を下げていた故なのかもしれない。
とはいえ、家老としても秀秋がどんどん家臣を加増するので財源の工面をしたかったのかもしれない。無論、家臣の働きに報いる事は家臣の働きがいに繋がっていたであろうが……。
秀秋は慶長7年4月20日に北政所より金子50枚を借用しているが(秀秋文書集157)、(金50枚とは約1450万円程の大金(金1枚を1両で換算)である。)この逸話のような背景があって財源の工面に苦心していたのかもしれない。ちなみに『甫庵太閤記』で秀吉の形見として秀秋へ渡された金子が100枚なので、その半分と考えれば良いだろう。
なお文中の原田権之頭は原田権佐として知行目録に名前が見える。千石程度であったらしい。

個人的に逸話の中でも1,2を争うくらい好きなエピソードです。
いい意味で若さを感じられる、とても素直に自分の信じる道を進んでいく秀秋さんの気質が表れていると思うんですよ。
『光禄物語』の逸話で分かるのですが、秀秋さんは備前・美作の民からとても慕われていたそうです。
こういった逸話もあって慕われていたのでしょう。

大河内逸話セレクション・その4

やはり9/15ならここでしょう!
という訳で『光禄物語』より関ヶ原の戦いの記述です。

関ヶ原の戦い
【本文】
然るに秀詮公は、家康公の御上りを待玉ふて、江州草津石部に屯し玉ふ。
已に家康公、九月十四日濃州赤坂に御着陣、秀詮公へ御使者進ぜらるる。
秀詮公御使を以、相図を堅め玉ひ、十五日の早旦、御自身御指磨を以て、関ヶ原に充満せる大軍へ一羽に打掛り玉ふ。
関ヶ原出張要とをぼしき、大谷刑部少輔・浮田中納言・島津兵庫頭三家の備を、またたきの間に討亡し玉へば、大谷は自害をし、島津は御歩行の士、笠原藤左衛門討取しかば、則其場に於て、四百石の御墨付をぞ下されける。
故に小身小勢の面々散々に敗北し、只夜の明けたる様にぞ成たりける。

【訳】
秀秋公は家康公の到着を待つため、近江・草津の石部に駐屯されていた。そこに家康公が九月十四日に美濃・赤坂に御着陣され、秀秋公へ使者を出した。
秀秋公は使者によって合図を約束し、十五日の早朝、御自身が指揮を取り関ヶ原に充満する大軍へ一息に(一気に?)打ち掛かった。
関ヶ原に戦いの為出向いていた要の軍勢と思しき大谷・宇喜多・島津の三家の備をまたたく間に打ち滅ぼしたので、大谷は自害し、島津の徒武士・笠原藤左衛門を討ち取ったので、その場ですぐ四百石のお墨付きを下された。
ゆえに、禄が少ない者や小勢の面々は散々に敗北し、ただ夜が明けた様になったのである。


【解説】
秀元は負傷したため関ヶ原には不参加。伝聞である。
9月14日に秀秋が三成らに対し明確な敵対行為を示したことは資料(『吉川家文書』913、『慶長年中卜斎記』)からも伺える。この記述を信じるならば、家康の使者が秀秋の陣を訪れ秀秋もそれを受け入れたため敵対行為と見なされたと言う所だろう。
また、秀秋が15日早朝から動いた事も資料(「(慶長五年)九月十七日付松平家乗宛 石川康通・彦坂元正連署状写」、『舜旧記』、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)より伺える。つまり実情に近い記述がなされている可能性が高い。
そうなると気になるのが「近江・草津の石部に駐屯」という記述である。大垣城に秀秋が居た(「八月二十九日付保科正光書状」)、吉継の後詰として柏原と山中との間の関所にいた(「佐々部一斎留書」)と資料にはあるが、秀秋の実際の居場所については謎が多い。
とはいえより関ヶ原に近い柏原には秀秋の出した禁制があるし(「小早川秀秋文書集」119)、石部から関ヶ原へ向かう途中には佐和山城があるため、14日時点の居場所は石部ではないのかも知れない。

という訳で、解説にも書きましたが『新解釈 関ヶ原合戦の真実』以降注目を集める様になった「関ヶ原の戦いの本当の実像」に即した記述なんですよね。
いわゆる後世作られたと思しきエピソードは一切出てきません。
関ヶ原の戦いには不参加だったとはいえ秀秋の側近と呼べる程の家臣となった大河内秀元。
『朝鮮物語』で「嘘は書かない」とした秀元の事、その意思を継いだ息子・秀連もできるだけ実情に即して書いたのではないでしょうか。

堅田文書をみる

例の秀保の跡職に秀次の息子を据える書状の書き下しや訳が公開されたみたいです!
・日付は4月27日、という事は秀保が亡くなって10日位
・郡山を「悪所」、多門山に移動する予定としているのが興味深い。秀長・秀保が相次いで亡くなり縁起が悪いと思ったか
・息子は大和ではなく伏見の秀次の御殿に母親と住まわせる。まだ幼いから?
・輝元は上洛する予定だったもののタイミングが合わず延び延びになっていたらしい。輝元や隆景が秀次事件の際上方にいたのはそもそも上洛の予定があった為かも知れない

ちなみに『堅田文書』は「永録〜慶長初年のものは「閥閲録」巻10に収める。本所架蔵の史料は、元応2年(1320)11月の近江富永庄関係の文書1点を除けば、いずれも輝元以降の時期にかかるものであり、「閥閲録」とは重複しない」だそうです。
この「本所架蔵の史料」は「所蔵史料目録データベース」(キーワードに「堅田文書」で検索)で全て見ることが出来ます。
説明を見る限り巻十八は豊臣家関係らしいんですが、とりあえずこのページに「小早川」とある事だけは分かるぞ…!
堅田さんの文書なら秀秋さん関係のものもありそうな気がする。

『吉川経幹展―広家から経幹へ 祖宗の訓』行ってきました+気になる書状

吉川資料館で開催中の『吉川経幹展―広家から経幹へ 祖宗の訓』に行ってきましたよ!
広家の書状と経幹がそれを写したものを一緒に見れたりしてその名に違わぬ展示でした!
いつものごとく個人的に気になった点をピックアップしてみます。

『吉川経幹公略伝』にみる広家の訓戒
・八月十八日の政変後、率兵上京しようとする毛利宗家に経幹が広家の言葉を持ちだし反論
広家「毛利宗家に利欲があれば嫌疑を掛けられ災いが起こる。こういう時は再三忠告すべき」
・経幹は上京について宗家の利欲であると反対した(が、結局長州藩は上京。蛤御門の変が起こる)
・十中八九、広家の言葉は関ヶ原の時の輝元が総大将になった時の事だろうなあ…(そして宗家が聞かずに窮地に陥るところまで同じ)

敬親の掛け軸、経幹の掛け軸
・敬親の文字はダイナミック、経幹の文字は丁寧に綺麗に書いている
・なんとなく輝元と広家の書状の文字(輝元:のびのび大きく書く、広家:丁寧にマメに小さい文字で描く)を彷彿とさせる…

経幹書写『吉川文書』
・経幹は吉川家の書状を色々と書き写していた。これは本の形にまとめられたもの
・今回広げられていたのは1600年9月17日の広家の書状の冒頭部分
「筑中」の部分に「小早川中納言秀秋」と朱で注釈を入れている
・「大刑」(大谷刑部少輔吉継(吉隆))の部分とかにはない
・わざわざ秀秋の部分だけ注釈を入れたところも気になるものの、ポイントは経幹が秀秋を小早川家の人間として書いているという事
・やっぱり奥さんの御先祖様だから?
・ちなみに奥さん(延)の写真もあるのですが、どうも家紋として五七桐を付けている気がする

あと週刊「日本刀」の狐ヶ崎特集も資料館で売ってたので買ってきたんですが、等身大は思った以上にでかかったです。
拵を付けると1m超えるだろうから結構大きい。裏面には銘や地金の拡大図もあってなかなかいい感じです。拵の写真もあるよ。
この号、享保名物帳(焼失、追記以外)をリスト化したものもあります。
表で当時の所有者・長さ・評価額・現所有者・とうらぶ実装(!?)・現指定(国宝・重美など)がまとめてあって色々便利そう。
これだけ項目があると流石に若干漏れはありますが。気付いたのはここあたり
・岡山藤四郎の現所有者は東京国立博物館(最近論文で発表されたばかりなので仕方ない気もする)
・実装済みなのにハブられた篭手切郷


チラシが置いてあったのですが、岐阜県垂井町のタルイピアセンター『南宮山攻防戦! 垂井と関ヶ原合戦』が開催中だそうです。
南宮山での攻防に焦点を当てたという珍しい展示。歴史民俗資料館・企画展示室にて9/16まで。
どうやら図録(500円)もあるそうですよ!

大河内逸話セレクション・その3

えらく時間が空いてしまいました…。
ちなみに天華の次回実装の波切・石切は、鬼切安綱・あざ丸とセットで頼光四天王になる模様。
で、庖丁三姉妹の実装まだですかね…!
庖丁正宗さん実装されたらいい感じに関ヶ原近辺での毛利家刀が護刀に並べられそうです(こうなると義属性も欲しいな)

吉川資料館で『吉川経幹展―広家から経幹へ 祖宗の訓』開催中だそうなので行ってきます!
広家と経幹の繋がりをピックアップして下さるとは流石分かっていらっしゃる…!
ざっくり説明すると経幹さんは幕末の吉川家当主で、関ヶ原時の広家さんを思わせる働きで(実際に広家さんリスペクトもしてた)幕末の動乱の中毛利家を守り抜きます。
幕末の毛利家当主・敬親さんとの関係性も見どころです。
9/8までだそうです。18きっぷが捗りますね!
今回も展示解説資料の販売があるそうですよ!
あと週刊「日本刀」の狐ヶ崎特集が気になる…。等身大ピンナップもあるそうですよ!

と言う訳で今日は『糟粕手鏡』より秀秋さんと刀のエピソードを紹介。
ちなみにこの訳・解説は12月発行予定の本にも載せる予定。

秀秋の好む刀
【訳】
秀秋公は太刀や刀を召されては御自身でも試し切りされていた。
(名工とされる)正宗・貞宗・郷・吉光の刀であっても、切れ味が心に叶わなければ土壇の上へ投げ捨てられ、近くに居合わせた家臣に「あの刀は切れないので、差料にはならぬ。汝が代わりに使うと良い」と仰って幾度となく下賜した。
(逆に)どれほど下作の刀であっても、切れる刀であれば大いに大切にされた。


【解説】
見てくれやブランドよりも実用性を重視するという秀秋の刀剣の好みが窺い知れる逸話である。「正宗・郷・吉光」と言えば「名物三作」として著名な名工であるが、ここでは「貞宗」を加えている。少なくとも『糟粕手鏡』の成立した一六六〇年代でも、これらの刀工を特別視する見方はあったと言える。
号に加え自身の名をも銘に入れた「波游ぎ兼光」「安宅貞宗」はその中でもお気に入りだったのであろうか。「波游ぎ兼光」には切られた曲物が川を泳ぎ切った後真っ二つになったと言う切れ味を示す伝承もあり、秀秋が好んだ事も頷ける。
ちなみに、岡山城の秀秋期の石垣は石を加工せずに組み上げた「野面積み」である。石を加工し整えてから組む「打ち込みハギ」と比べ見た目こそ悪いが、積み方と石の選び方を間違えなければ耐久的に問題はなく工期も短縮出来る。秀秋の考え方がよく表れた一例であろう。


大河内逸話セレクション・その2

さすが殿だ、物販ブースでも凄い存在感だ…!
と言う訳で岐阜高島屋にて「清流の国ぎふ 関ケ原古戦場フェア」が16日まで開催中だそうです。

12月刊行予定の秀秋さん逸話本、もくもくと下書き進行中です。
しかし秀秋さんは戦してる時より家臣と和気あいあいしてる時の方が楽しそうというかいい笑顔が見れる気がします。
と言う訳で『糟粕手鏡』より家臣とのほっこりエピソードを紹介。

士に上下なし
【訳】
秀秋公は千三百騎も居る家中の武士たちに、度々鷹狩りで捕えた鶴や白鳥、川で捕った魚を肴にしてお料理を下さった。大般若と捨子の壺(注:両方秀吉よりの拝領品)で淹れたお茶、様々なお菓子と真に珍客の如くもてなされた。
秀秋公は常々「家臣に上下は無い」と仰って、知行が三百石の人々でも早く着いたならば一番の上座に着席し、三万五千石の平岡頼勝(石見守)・二万石の杉原重治(下野守)・一万石の赤尾隼人正と松野重元(主馬)であっても遅く来たならば下座に着席した。「来た次第に着座」との決まりであった。
秀秋公がおいでなされ、心よさげに語るには「みな世の人々からも賞賛されていると聞いて、予が満足は限り無い。そうであれば大名共が其方らを勧誘する事もあろう。その時は暇乞いしてそちらへ行くがいい。武士は百石を増して立身することが一代の出世であろう。予が及ぶ限りは先方から勧誘されることがあれば、加増して止めよう。及ばない場合は、暇乞いの祝いをし、家老共から先方へ書状を差し添えて遣わせよう」との事であった。
座の家臣は皆感涙し「常々の御慈悲、あまねく広き事にございます。いかなる者から十倍二十倍の禄にて勧誘があろうとも、誰一人としてこの家を去って行くべき家がある等と思いません」と申し上げた。秀秋公は大層機嫌が良くなり、簾の中へ入られた。


【解説】
秀秋が家臣に愛されていた事を伺わせる逸話である。また、世間でも秀秋の家臣の評価が高く引く手あまただった事も伺わせる。
秀秋は鷹狩りや漁を好んでいたのだろう。隆景の元へ養子入りした際の歓待でも鷹狩りや漁を行っていた事を思い出させる(『小早川家文書』155,156)
大般若と捨子の壺は『朝鮮物語』慶長3年6月2日に安宅貞宗・藤四郎吉光と同時に朝鮮での労苦をねぎらう品として秀吉より拝領したものであろうか。
いかにも酒の進みそうな宴会メニューであるが、文中に酒は出てこず飲んでいるのは茶である(一応「肴」と表記しているので出てはいそうだが)
知行に関わらない席順が最大の特徴である。年齢に見合わぬ上座に座っていた秀秋のこと、家臣には自由に気兼ねなく居て欲しいと思ったのだろうか。
文中の家老衆には稲葉正成は登場しない。そのため正成の出奔した慶長6年閏11月22日以降と思われるが、その時点では殺害された筈の杉原重治やその際出奔した筈の松野重元が登場する。ただし杉原の殺害は後世の軍記物(『備前軍記』)での記述であり、一次資料には見当たらない。杉原の殺害は事実なのか、再考の余地があろう。
また、赤尾隼人は1602年10月22日の「備前・美作知行高目録」に名前が見え、家老格であったことが裏付けられる(「藩中古文書」十二)
最後唐突に簾中へ入る秀秋だが、家臣達の言葉に思わず涙ぐんでしまいそれを隠した、という所だろうか。

秀元、真実を記す

天華の次の追加巫剣(のうちの一人)恵瓊さん!恵瓊さんの持ってた子じゃないか!!
どんどん毛利家の子が充実していってて嬉しいです。振分髪さんと絡んでくれると大変嬉しい。厚ちゃんでもいいぞ。
あとは輝元様の持ってた子が来れば関ヶ原世代のメインが揃うな!


12月頒布予定の大河内家による秀秋さん逸話まとめ本、とりあえずネーム時点で100Pを越えました…
漫画+文章(一部本文・訳・解説)という構成なので全部が漫画ではないのですが、思いのほか多かったです。

そんな大河内秀元の『朝鮮物語』より、附言、いわばあとがきとして書かれた文をピックアップ。
【訳】
この本を見る人は、始終大河内氏が軍功を挙げるのに似て、一日中筆にまかせて、とりとめの無い事を色々と書き付けて側に置いておいたと言うだろう。
(※中略)
後から見た君子が、その語句の賤しさ故に意気込みにまかせて、その場その場の日記に従って、是を校正して、是を正して、文章を書いて、吊りあった末の言葉であっても、どうして有る事を無い事として、無い事を有るとするだろうか。いや、しないだろう。
これにおいて、日本国中大小の神、とりわけ氏神である八幡三所(注:応神天皇・神功皇后・比売神または仲哀天皇)に誓って、一言の偽りも無い事を宣言するものである。


ようは、秀元は「真実として」『朝鮮物語』を記したということ。
勿論慶長の役より六十年以上を経てまとめられた日記であるため齟齬は有るだろうし、
人物評(特に三成)など秀元の主観が含まれる部分もあるでしょうが、
秀元の言葉を信じるなら少なくとも自分がどう感じたかは嘘偽りなく書いているだろうし、大筋に嘘は無いということになります。
この『朝鮮物語』自体は割と早い段階から知られていたものの(新井白石が『藩翰譜』で引用した事でも有名)
あくまで秀元の日記として書かれたものなので、出版するため話を盛ったとも考えづらい。
つまりは秀秋さんの蔚山城救援や波およぎ兼光での無双も秀元は真実として記した、という事に!
この部分、秀元の『朝鮮物語』を書いたスタンスが見えてきて結構重要な気がします。


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